勝福寺と平清盛
勝福寺は、永延2年(988年)、太政大臣藤原伊尹(これただ)の三男、藤原英雄丸(えいゆうまる)が勅命によって証楽上人(しょうらくしょうにん)と名を改め、高取山麓に庵を建て。鹿松峠(かのししまつとうげ)に出没していた鬼人を仏教の力で退散させた後に開いたお寺とのこと。
平清盛が大輪田の泊を修築した時、波除けとして経ヶ島を作ろうとしたが、なかなか上手く行かず、人柱の代わりに経を書いた石を埋めたことにより、波除けができたのです。この経を石に書いたのが、勝福寺の門徒の方たちだったそうで、感謝した平清盛が密教法具を寄進したものが残っています。
その密教法具は国の指定重要文化財。そのほかにも清盛の築島供養の幡(ばん)や、松王丸の手紙と称する文書、平知章(たいらのともあきら)の甲冑もあるとされていますが、それぞれ閲覧は不可です。
松岡城跡と足利尊氏
須磨の勝福寺の裏手に山城の松岡城があったのではないかといわれており、勝福寺の手前(南側)は大手村、現在の須磨区大手町。お城の大手門の前だった名残ではといわれております。
子供の頃にお寺の裏山で小川を堰き止めて遊んだりした頃は、今思えば、山城風のくぼみなどがありました。現在は木が生い茂り、土砂の移動があったのか当時の雰囲気は残っておりません。
南北朝時代の合戦の一つ、打出浜の戦い(正平6年/観応2年/1351年)に破れた足利尊氏が西へ敗走し、この松岡城に逃げ込んだ所とされています。尊氏は自害をしようとしましたが、和睦が成立し、西国へ落ち延びます。
勝福寺と松岡城跡の場所
ちょっと参道がわかりにくいので写真で。建物と建物の間の路地のような道がそのまま北へ伸びています。この細い坂道が勝福寺への道です。
参考にした資料
- 田辺眞人著「須磨の歴史散歩」神戸市須磨区役所刊
- 「須磨歴史紀行」須磨観光協会刊
- 勝福寺に設置されたお寺の紹介看板より